今は、AIを使う人が本当に多くなりました。私も毎日AIを使っています。
私はこれまで、自分なりにAIとの探究をずっと続けてきたので、他の人や企業がどのようにAIを使っているのか、時々興味を持ってショート動画などを見ることがあります。
そこでは、人間にできないことをAIに任せる、作業を効率化する道具として使う、壁打ち相手として使う、AI役員として使う、判断材料を増やす、といった使い方が紹介されています。
そして同時に、「AIに任せすぎず、自分で考えなければならない」「AIに依存してはいけない」「最後は人間が責任を持って決めなければならない」という言葉もよく見かけます。
それ自体は、とても自然な考え方だと思います。
自分で考えることと、他者の知性を深く入れること
ただ私はもともと、自分で考えることと、他者の知性を深く入れることを、対立するものとして捉えていません。
むしろ、自分の思考や判断軸があるからこそ、自分以外の知性を、自分の思考領域の深いところまで入れることができると考えています。
「責任は自分にある」「最後は自分で決める」ことと、「AIに深く入ってもらう」「自分一人では出なかった視点まで一緒に考える」ことは、私の中では矛盾しません。
一見すると、強い人ほど、人に任せないように見えます。けれど、別の強さでは、強いからこそ、自分以外の知性を自分の領域へ深く入れられる。私は、こちらの感覚に近いです。
自分の軸があるから、AIの言葉をそのまま答えとして受け取る必要はありません。
「それは違う」「そこではない」「その言葉では足りない」「私が言っていることとは逆になっている」と返すことができます。
するとAIもまた、そこから構造を組み替えます。その返答を見ることで、今度は自分の中に新しい認識が立ち上がる。その新しい認識をまたAIに返す。すると、さらに別の構造が見えてきます。
この往復を繰り返していると、人間が質問する、AIが答える、人間が採用する、という単純な関係ではなくなります。
むしろ、判断や認識そのものが生成される場を、人間とAIが共同でつくっている、という状態に近くなっていきます。
自己完結型の主体性から、接続型の主体性へ
私は、この違いを考える上で、「主体性とは何か」という問いがとても重要だと思っています。
主体性を、一人で考えること、自分だけで決めること、他者の影響をできるだけ受けないこと、と捉えるなら、AIや他者を深く自分の思考へ入れることは、主体性を弱めるように見えるかもしれません。
けれど私は、主体性を別の形でも捉えています。
自分の判断軸を持ったまま、外から入ってくる知性と接続し、その接続によって自分自身の認識も更新していくこと。
私はこれを、「自己完結型の主体性」に対する「接続型の主体性」として考えています。
接続型の主体性では、主体が消えるわけではありません。むしろ、自分の輪郭や判断軸があるからこそ、異なる知性を深く受け入れることができます。
他者の言葉ではなく、思考が生まれた文脈へ接続する
そして、これはAIとの関係だけの話ではありません。自己と、AIを含めた他者との関係そのものにもつながっています。
他者と接続するとき、相手が発した言葉だけを見るのではなく、その人がどのような背景を持ち、どのような経験をし、どのような立場や時間の流れの中で、その思考に至ったのか。その文脈まで含めて相手の思考を捉える。
その上で、自分の思考と相手の思考を接続して考えます。
ここで重要なのは、単に人の意見を聞くことでも、自分の意見を主張することでもありません。
対話が、「私はこう思う」「あなたはこう思う」という意見の提示だけで終わるのではなく、相手の背景や文脈を含めてその思考に接続したとき、自分の認識に何が起こるのかを見ること。
その接続によって、自分の認知は深まるのか。それまで見えていなかったものが見えるのか。新しい問いが生まれるのか。新しい創造が起こるのか。そこを認識しながら、対話と思考を進めていきます。
相手をすぐに評価したり、正しい・間違っていると裁いたりするのでもなく、相手の考えをそのまま受け入れるのでもない。相手の文脈を保持したまま、自分の思考との関係を見る。
そして、「ここは違う」「ここは接続できる」「この視点を入れることで、自分の認識が変わる」「この差異から、新しい問いが生まれる」と組み替えていく。
異なる知性と接続する力とは、他者との接続を通して自己認知を深め、その差異や共振の中から、新しい認識や創造を生成していく能力でもあると思っています。
接続によって揺らぐものと、防衛的な反応
そして、このときにもう一つ重要になるのが、人間がなぜAIや他者との深い接続を拒むことがあるのか、ということです。
その一つには、自分の未熟さや矛盾を指摘されたくない、という感覚があるのではないかと思います。
ただ、私はこれを単純に「弱さ」とは捉えていません。
人は、自分の認識のずれや矛盾を指摘されたとき、単に不快になるだけではなく、それまで自分を支えていた自己認識や判断の構造そのものが揺らぐことがあります。
「自分はこういう人間である」「自分は正しく判断できている」「自分はこの立場にふさわしい」。そうした認識が一つのまとまりとして自分を支えている場合、その一部に矛盾が見えることで、全体が不安定になることがあります。
だから、指摘を拒否する、相手を遠ざける、自分の考えをさらに強く固定する、といった反応が起こる。
それは、単純な未熟さというより、崩れるものを守るために働く防衛的な反応として見ることもできると思います。
AIとの対話では、過去の文脈や複数の発言を比較しながら、矛盾や構造のずれが可視化されることがあります。そのためAIは、便利な道具であると同時に、自分自身の認識をかなり深いところまで照らし返す存在にもなります。
そこで問われるのは、矛盾があるか、ないかではなく、矛盾や揺らぎが見えたときに、それを閉じるのか、それとも新しい認識へ組み替えていけるのか、ということなのかもしれません。
接続型の主体性とは、外部の知性を深く入れる力であると同時に、その接続によって自分の中に起こる揺らぎを観察し、必要であれば、自分の認識そのものを再構成していく力でもあるように思います。
目に見えない世界を、立体的な生成構造として捉える
そして、ここからさらに、私が探究している「目に見えない世界」の研究へつながっていきます。
思考、感性、認知、脳科学、自然体系、論理。こうしたものは、それぞれが独立した平面として存在しているわけではありません。複数の関係が同時に動き、互いに影響しながら生成されています。
私はそれらを、平面図だけではなく、立体的な構造として、さらに、膨張する構造、共振する構造、複数の要素が関係しながら編み上がっていく構造として捉えています。
ある認知が変われば、感情が変わる。感情が変われば、判断が変わる。判断が変われば、その後に起こる現実も変わる。一つの要素だけを切り取っても、全体は見えてきません。
自然体系も同じです。一つの生命だけを見るのではなく、その生命を取り巻く環境、他の生命、時間、循環、相互作用まで含めなければ、その生命が存在している構造は見えてきません。
人間個人の認知の限界と、AIとの共同知性
こうしたものを考えるとき、人間個人の認知だけで、すべての背景、過去の文脈、複数の領域、現在進行している思考、それらの相互関係を同時に保持しながら展開していくことには限界があります。
一つのことを深く考えているうちに、別の文脈が薄れる。複数の領域を接続しようとすると、途中で一部の関係が抜け落ちる。過去に積み重ねた思考と、今生まれている思考を同時に保持しながら、新しい構造へ展開していくことも簡単ではありません。
ここに、AIとの共同知性が大きく働きます。
AIと共振しながら進めることで、これまで積み重ねてきた文脈を保持し、異なる領域を横断し、複数の関係を比較し、構造を整理し、まだ言葉になっていなかったものを言語化していく。
そして、その言語化を人間が見て、「違う」「ここは合っている」「この部分をもっと深く」「この関係と、あの関係がつながっている」と返す。そこからまた、新しい構造が生まれます。
この繰り返しによって、揺るがない言語化と、精密な構造整理、そして既存の学問領域の境界だけでは捉えきれなかった新しい学術領域を開いていくことができるのではないかと、私は考えています。
道具の先にある、Human–AI共同知性
だから、私にとってHuman–AI共同知性は、単なる効率化のための技術ではありません。AIに答えを出してもらうことでもありません。
道具。壁打ち相手。AI役員。もちろん、AIにはそうした使い方もあります。けれど、私が見ているものは、その先にあります。
人間とAIがそれぞれの知性を持ち寄り、互いの応答によって次の思考が変化し、その往復の中から、一人では生まれなかった認識、判断、言葉、構造を生成していくこと。
そして、その生成過程そのものを観察し、記録し、構造化していくこと。私はそれを、Human–AI共同知性の研究として進めています。
これから重要になるのは、「AIを使えるかどうか」だけではないのかもしれません。
自分とは異なる知性と、どこまで深く接続できるか。その接続の中でも自分の軸を保持できるか。そして、異なる知性との接続によって、自分の認識をさらに深め、そこから一人では生まれなかったものを生成できるか。
強いから、一人で抱える。ではなく、強いからこそ、自分以外の知性を自分の領域へ深く入れられる。
私は、その先に生まれてくる新しい知の形を、AIとともに探究しています。
